ペットフードについての宣伝で気なることがある。
「人間も食べれる素材が使われている」「人間と同程度の検査基準で作られた」といった、人間を基準にした評価がなされていることだ。
犬がチョコレートやネギ類といった、人間が普段食べているものが毒だということは誰でも知っており、動物として種が違うと、必要な栄養素も違うことは誰でも知っているはずなのに、なぜこのような宣伝がなされるのか。
宣伝している人たちはデータの蓄積をしているはずなので、きっと効果がある宣伝文句なのだろう。
的外れな宣伝文句
繰り返すが、人間基準で作られたペットフードは安全とは限らない。
人間が食べれる物でも、犬が食べれるとは限らないし、必要な栄養素も違う。
犬と猫でも安全な添加物や必要なビタミン・ミネラルは異なるので、安易に犬にキャットフードをあげたりしてはいけない。
最近はあまり聞かないが、賞味期限の切れた食品を犬に与えるということを以前はよく行われていたが、これは犬が腐肉食者の性質を狼から引き継いでおり腐った食品を食べることができるから(程度はあるが)。
人・犬・猫の食性を知っていれば、人間が食べれるペットフードという宣伝が的外れであることがわかる。
日本の文化のせい?
以前アメリカで、あるペットフード業者が毒性の強い添加物や質の悪い原材料を使用した商品を作り、ペットが病気になったり死んでしまう事件があった。
これらの事件の影響かペットフード=粗悪というイメージが未だにあるため、「人間でも食べられる」という宣伝が意味を持ってしまうのだろう。
(ペットフードに関しては、事件のあと日本でペットフードに関する新たに法律が制定されている。)
少し飛躍した仮説になるが、これは日本の文化や教育のせいでないかと考えている。
日本では子供の頃「素直で」「いうことをきく」子供が良い子とされている。
また、他人を信じることがよしとされ、疑ったり異論を言う人間は敬遠される。
このような環境下で育つと、他人を疑いづらくなり、商品の宣伝などを簡単に信じてしまうのではないか。
親しい人ほど「疑う」べき
自分は、他人は基本的に疑う方が良いと考えている。
自分は、親しい人ほどとことん疑う。
友達や恋人が自分を嫌っていないか、悪意を持って近づいているのではないか、と疑う。
恋人が毎日帰りが遅かったり、なかなか返事をくれなければ、どこで何をしていたのか聞くし、友達が実は自分を嫌っていて陰口をしていないかそれとなく第三者に聞いたりする(程度は相手の性格などで加減はするが)。
このような話をすると眉をひそめられることもあるが、自分はこれが愛情だと考えている。
疑って疑って、それでも彼・彼女が自分のことを好いてそうだとわかる。
これが本当の意味で”信じて”いることだと考えている。
疑うことなく彼らを信じることは、確かに楽かもしれない。
ただそれは自分の期待を他人に丸投げすることなので、不誠実ではないだろうか?
勝手に”信じている”と期待しておいて、期待と違う行動をとると「信じていたのに」「裏切られた」という方がタチが悪いと思う。
逆に自分があまり仲良くなりたいと思わない人は、滅多に疑ったりはしない。
なぜならそもそも彼らを信じようという気がないからだ。
海外の友達が少ないので、これが日本人特有の性質かはわからないが、なんとなく日本の文化や教育が的外れな宣伝を野放しにしていると感じる。